感動物語。ビエイラの壮絶な過去 貧困で母親に野球を辞めさせられるようになったことも、、

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出典 スポーツニッポンから引用

チアゴ・ビエイラプロフィール
背番号 49ポジション 投手
身長/体重 193cm/113kg
投打 右投右打
出身地 ブラジル

はじめに

巨人の絶対的守護神として君臨し、チームになくてはならない存在になっているビエイラ。先日は、166キロを叩き出し、日本最速を更新しました。今回は、そんなビエイラの過去について紹介していきたいと思います。

ビエイラの生い立ち

ビエイラは、1993年1月7日、サンパウロの北西にある小都市タトゥイで生まれた。2人兄弟の弟で、幼いときに両親が離婚。母親は女手ひとつで2人の息子を育てたが、決して裕福な家庭ではなかった。地元の日本文化協会が野球の少年チームを運営しており、8歳のとき、ビエイラは日系人の友人に「一緒にやろう」と誘われたが、ブラジルでは国産の野球用具がなく、輸入品は高価。ビエイラの母親が費用を捻出するのは難しかった。ところが、日本文化協会やチームの関係者が援助の手を差し伸べてくれ、それによってビエイラは野球を始めることができた。そのときは、大柄だが機敏で、主に三塁を守った。

幼少期からスポーツ万能で、地元ではかなり目立つ存在だったビエイラ。地元のフットボールクラブから誘われ、11歳のとき、一時はフットボールに転向しかけたこともあった。そちらの才能も十分にあったが、本人は「野球の方が楽しい。やっぱり野球をやろう」と考え直した。ところが、タトゥイの少年野球チームは資金難のため消滅してしまった。

大都市サンパウロであれば、野球チームはいくつもある。しかし、地方都市タトゥイには他に野球チームはなかった。やむなく、兄や地元の日系人と自主練習を続けた。13歳のとき、サンパウロ近郊アルジャーの日系野球チーム「ジェセブス」の関係者がビエイラの境遇を知り、チームに招いた。しかし、ビエイラの住むタトゥイからアルジャーまでは200km近い距離がある。しかも直通バスはなく、サンパウロを経由して二度乗り換える片道6時間の道のりだ。もちろん旅費もかさむ。しかしジェセブスの関係者が旅費、食費、用具代などすべて負担してくれ、週末だけではあるがチームで練習できることになった。

平日はタトゥイで中学に通い、自主練習。金曜の午後にタトゥイを出発し、夜、アルジャーに着いて、チームメイトの家に泊めてもらう。土曜、日曜とチームで練習して試合にも出場する。そして、日曜午後にアルジャーを出発し、3本のバスを乗り継いで夜遅く、タトゥイの自宅に帰り着く。

こうして、またチームに所属してプレーできるようになった。ビエイラは、嬉々として練習に励んだ。この頃から、プロ選手を夢見るようになるように。17歳のとき、サンパウロ州にヤクルト野球アカデミーが設立された。ブラジル・ヤクルトが出資し、専任の指導者が南米各国から優秀な若手を集めて英才教育を施す。そこから10年後の1月、17歳のビエイラは入団テストを受けて合格した。ところが、彼の前に2つの障害が立ちはだかった。

アカデミーは全寮制で、月に約2000レアル(約4万円)の経費がかかる。しかもビエイラの母親は「そろそろ働いて家計を助けてほしい」と考え、地元のスーパーでビエイラを働かせようとしていた。「将来に何の保証もない野球をいつまでも続けさせられる状況ではない」という理由からだった。アカデミーで理学療法士として働くデニーゼ・カノはビエイラがまだ粗削りではあるが素晴らしい潜在能力の持ち主であることを見抜いていた。彼の才能を惜しみ、タトゥイまで出向いて彼の母親と何度も話し合った。「費用はすべて自分たちが負担するので、あと数カ月間だけビエイラに野球をやらせてあげて」と懇願し、本人ともども、3カ月かけて母親を説得。結果、母親が承諾し、ビエイラは野球を続けられることに。ただし「3ヶ月間でアメリカか日本のプロ球団から声がかからなければ、自宅へ戻って別の仕事に就く」という約束があった。

それにしても、なぜビエイラはこれほど多くの人から助けてもらえたのか。デニーゼは「巨大な才能を持っていることもあるけれど、一番の理由は彼が野球が大好きで、野球で身を立てようと懸命に努力する姿に感銘を受けていたから」と説明する。

こうして、17歳のビエイラは自分の野球人生のすべてをアカデミーでの数カ月間に賭けることになった。それまでは投手と三塁手を兼務していたが、指導者たちは彼の適性が投手にあると判断した。当時、彼を指導したチアゴ・カウデイラ投手コーチは「あれほど目の色を変えて練習する子は見たことがない。入団当初、投手としてはほぼ初心者で、直球は最速133km程度。変化球もほとんど投げられなかった。それが正しいフォームを身につけ、ウエートトレーニングなどで筋力もつけると、球速がどんどん上がった。変化球も少しずつ良くなった」と語る。

アカデミーには、時折、MLBの球団のスカウトがやってきて選手を視察し、気に入った選手がいればマイナー契約を結ぶ。入団から3カ月たった頃、シアトルマリナーズのスカウトがビエイラに目を付けた。9月、ビエイラは晴れてマリナーズとマイナー契約を結んだ。見事、母親との約束を守り、念願のプロへの第一歩が開けたのである。

この頃には、直球のスピードが150kmに達していた。わずか5カ月で、球速が17km増したのだ。「こんな選手は見たことがない」と当時ほコーチは驚嘆した。

マリナーズと契約後、最初の2年間はベネズエラ・サマーリーグで修行を積んだ。2012年にはブラジル代表に選ばれて2013年WBCの中南米予選に出場。クローザーとして2試合に登板して2セーブを記録し、予選突破に貢献した、2013年3月に福岡で行なわれたWBC第1ラウンドにも出場。キューバ戦は1イニングを無失点に抑えたが、中国戦で2失点。チームは強豪相手に奮闘したが、結果的に3戦全敗でチームは敗退した。

2013年から2017年までは、引き続きマイナーリーグでプレー。2016年には現在に至るまでの自己最高の167kmを記録している。そして2017年8月、メジャーに昇格し、オリオールズ戦でデビューした。11月にはホワイトソックスへ移籍。2018年8月24日、デトロイトタイガース戦で初勝利をあげた。2019年までのMLB3年間の成績は、2勝1敗1セーブ1ホールドだった。

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2020からは読売ジャイアンツでプレーすることに。しかし、ジャイアンツ入団当初は、スピードはあるもののコントロールが悪く、変化球の精度もイマイチだった。2軍に落とされることもあり、また壁にぶつかった。しかし、ここでもビエイラら諦めず、ひたむきに練習を続け、制球難を克服、スライダーも取得し絶対的な守護神に登りつめた。

ジャイアンツの選手やコーチも「こんなに練習する選手を見たことがない」というほどで、凄まじい努力があってこその今のビエイラなのだ。

まとめ

過去の辛い経験からも諦めることなく、努力を続けて現在に至るビエイラ。普通の人だったら、野球を諦めてしまうような境遇を何度も味わっているにも関わらず、諦めないすごい執念を持っています。また、誠実に努力しているがゆえに周りの人も協力し、今のビエイラを支えているのです。たしかに、ビエイラの練習風景や試合での姿を観ていると、応援したくなりますよね。この話を知ったら、なおさら応援したくなりました!頑張れ、ビエイラ!

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